鰯の手開き
今日も魚をさばいてしまった。
鰯の手開きの練習をしている。
酢締めが好きで、今回は二度目なのだが、ネットで見つけた適当なレシピを参考に、頭を落とした状態で塩をふって、常温で2時間置いたあとで手開き。
塩漬けの後の方がやりやすいとあったので試したけど、先の方がいいような気がした。
鰯、少しでも傷むと扱いにくくなるので。
魚、どうしてこんなに美味しいのだろう。
食べられるために生まれてきたのではないのに、神がかった造形をしている。
生きているものの肉を食べて生きるほかなく、生きているものを自分で作ることはできない。
泳ぐために最適化された銀色の美しい魚に指を入れて破壊してしまった。
申し訳ない。生きるとは。。
12時間くらい経ったら食べます。お腹をこわしませんように。
ダンスの禁止
https://twitter.com/ks_1013/status/1016079106608226304?s=21
イラン人女性が自室でのダンスをネット配信したところ、公共の場でのダンスの禁止に抵触するとされた件について、抗議のダンス配信が広まっているとか。
人がなぜ踊らなければならないのかが論じられているのはときどき見る。よく見る。
ダンサーへのインタビューではしばしば、なぜ、何のために踊るのかという質問がなされる。
それより不思議なのは、他人が踊っているのを禁止したがる心性のほうではなかろうか。
日本にも謎の風営法という法律があるなど、ダンスの禁止はわりと普遍のよう。
ひとはなぜダンスを禁じたがるのか。調べてみたいものだ。
助けを求める
突然不安に襲われることがあり、今がそんな時なのかもしれない。
現在の実感では、普段麻痺して忘れていた不安を思い出したというほうが正しいように思われる。
私は恋人と一緒にいた。恋人の手は優しくて、体は温かかった。
私は耳を彼の胸にあてて、心臓の音を聞いていた。
そのうち、私は悲しいことを考え始めた。この人は私を好きなのではない。
セックスしたいとき、あるいは女の体を触りたいときに、私が必要なのだ。
世の中には強姦も強制猥褻もある。相手を好きかどうかは、体に触れるかどうかとは関係ないのだ。
恋人は仕事が忙しく、一緒にどこかへ行くことはない。時間のあるときは、ゲームが優先される。
これが、観察から得られている事実である。彼は私と同じ時間を過ごすことに価値を見出していない。
私と同じものを見て、お互いを記憶し、共に歩むことに価値を見出していない。
私ではないだれかのほうが本当は良いのだ。
思考に圧倒されて涙が出てくる。私はいないほうがいいし、私はそれをよく知っている。
よりによって好きな相手に、そんな「私」を押し付けるわけにはいかない。
私はいないほうがいい、ずっとずっと昔から、私は私はそれを心得てきたのだ。
とても寒いところにいるような気がしてきた。壁に刺さった釘から、皮を剥がれた私の肉が吊り下げられているくらいに寒いところ。
悲しくて寒くて涙を止めるのは無理だった。彼の服を濡らさないようにしなければならない。
誰かが叫んでいた。私にだけ聞こえる子供の声である。子供が何を叫び続けているのかを私はよく知っていた。何らかの説明をすれば恋人は何らかのケアをしてくれるかもしれなかったが、信用することはできなかった。意味がわからない、面倒くさい、メンヘラ怖い(笑)、心の中を想像すればこんなものしか浮かんでこなかった。とりもなおさず自分が自分を殴り続けている思考であった。
涙は止まらない、とても寒い、私は私でなければよかった、
頭の中では金属でできた雲が金切声をあげていたが、私の声にはならなかった。
恋人の胸から顔を上げて、涙を拭いた。見えたかどうか分からないし、見えて見なかったふりをする選択も面倒を避けるには十分に有力だ。
帰るね、おやすみなさい。
■
先日はてなスターをいただいて、日記を書こうかという気持ちになった。
この日記は私を知っている人に見せようと思って書いてはいない。
自分のためになんでも書けるように、それでいて誰かが見てくれるように。いうまでもないけれど、私として書けば、私をコントロールしようとするだれかが出てくるのが嫌です。
しばらく以前の自分が何を考えていたのかなど興味深い。
失恋したとあるけど、結局相手と連絡が取れるようになって、いままた音信不通になっている。
音信不通にしている間に、先方は、親が亡くなったりするなどいろいろあったみたい。いろいろあったときに余計な詮索をしそうな人間をそばにおきたくないの、とてもよくわかる。いまもまた何か問題を抱えているのかもしれないが、私の問題ではない。また連絡が来てもあるいは来なくてもいいと思う。彼がどんな人だったのか、もう少し知りたかった気もするけど、私は相手がどんな人か知るのが上手ではなくて、どんなに一緒にいられてもあまり変わらなかったろうと思う。
それに、その言動からうかがい知れる彼の心性を私はさほど好きでもなかった。
幼さについて
私は幼い。
精神的に幼い人間と一緒にいてもだめだ、という。全くそのとおりで、子供を虐待する親など、ここにいう「幼い」の典型であり、近寄るべきではない。
そして、私は幼い。
尊敬できる人を見ていると、はっとすることがある。
周囲の人への振る舞い、承認、良い意味での警戒心のなさ。
もちろん私に対しても。尊敬できる人は、精神的に成熟している。そして、私はそんな人たちのそばにいて守られていて心地いい。
話がそれで終わればいいのだが、いかんせん私は幼い。
どう振る舞えばいいのか、わからない。成熟しているふりをすることができて、そのうち大人になれるなら一番いいのだろう。でも、思ってしまう。こんな良い人たちの中に私がいて、邪魔なのではないかと。彼らは成熟した人だから、私がいないほうがいい、などとは間違っても匂わせないけれど。
幼い人間と一緒にいるとダメージを受ける、という。実にそのとおりだと思う。
私は幼いが、その一方で、本当に幼かったことなど一度もないような気がする。幼い振る舞いで自分自身長い間傷ついてきたのだ。振る舞わなくても、心が反応するだけで、ひどく、見た目にはわからないハンデを積み重ねてきたのだ。
人はいったいどうやって成熟することができるのだろうか?私はこうして今も幼い自分を正当化しているのだろうか?
幸せになる?
いま仕事がない。お金も大して持ってない。家もないようなもの。家族も。
しかし、大して不安にならないのである。お金がなければ子供を大学に行かせることができない。貧困の連鎖。私自身は大学へ行っているので情けない限りではあるが、しかしそういう話を鑑みても、それが幸せとどう関係あるのかいまいちピンとこない。
大学には行ったし人並みに卒業したものの、自分は幸せになれない、あるいは、どうして幸せになれないのか?という疑問から逃れた日は一日もなかったように思う。
だから、お金がなくてもいまいち不安にならない。しかし、自分が大学にも行けなかったら、もっと不幸になっていた可能性はあるが。
お金や物、部屋についても同様である。
私の兄弟には盗癖があり、学校で必要なものやちょっとした良いもの、きれいなものまで、なんでも盗まれた。親は無関心だった。そういえば、大学の入学祝の10万円近い現金も下宿から盗まれたが、最初からなかったことになった。もしかしたら面倒を避けて親には言わなかったのかもしれない。それ以降兄弟を下宿に泊めるのは全力で拒否したが。
そんなこんなで、物を持っていても自分の物という感じはしないし、お金もいつ盗まれてもしょうがないから稼ぐ気にもならない。部屋だって、どのみち安心できる場所ではないという感覚が根底にある。
物が盗まれれば、親は、それはどのみち親が買い与えたものなのだから騒ぐな、と言った。しかし、どうみても自力で手に入れたコンクールの賞品も盗まれているのだから筋が通らない。また、親に買ってもらったものが盗まれても無関心なのだから、恩着せがましくしないでほしいものである。
人生の基礎がそのようにできているものだから、反面、手に入るものなら、安心できる部屋、信用できる家族、盗まれない、あるいは盗まれれば基本的には問題になるお金や財産が欲しい。そのようなものは多くの人にとって当たり前だと思うと悲しい。